ニッポン人って、お正月が大好き💛 だからこそ、年賀状のデザインに凝ったりするし、年末になるとプリンターが売れたりもする。なんだかんだ言っても年賀状が好きな国民性なのだ。
ところが、近親者に不幸があったりすると年賀状送達は中止する。昔からの習慣としつつ、喪に服してどうということもないわけだが、取り敢えず慣例なので年賀状は差し出さない。でも、年賀状を出さないだけではこれまた慣例として無礼と言われかねないので、「喪中だから年賀状出さないけど、あなたのことを忘れてるわけじゃないからね!」という宣言するはがきを年末頃に出す。
この喪中はがきのデザインについて、21世紀初頭のニッポン人はすっかり思考を停止させてしまっている。デザインはほぼ同じ。絵柄も文面も完全にテンプレート化されていて、あとは日付やら氏名やらをちょいちょいといじくって、完了となる。
そんなんでいい?
つい先日、知人が、
- 奥さんのお父さんが今年亡くなったからということで
- 喪中のはがきを差し出した
のだが、受け取ったあるヒトは内容もよく読まずに「急なことだったんかい?」って香典持って来ちゃったんだって! そりゃ慌てるよな、自分のお父さんご本人はその兆候もなくピンピンしてるんだから。
差し出した側の反省点として
- 亡くなったのが奥さんのお父さんなのに
- 姓を明記しなかった
ということが失敗のモトだったと考えているようだけれども、それだけじゃないような気がする。
思考停止を解除して、よく考えよう
たとえば、年賀状を頂戴すると、コドモの写真だけのコトがある。でも、受け取った側からすれば、よほど親しい間柄じゃなければ、見知らぬ幼齢のニンゲンが写っているにすぎない。でも、送った側からすれば、父として母として愛情を注いでいる対象なのだ。そして、それは世の中としては決して拒絶されているわけではない 。
ならば、喪中はがきには、故人の写真を使ったデザインなんかどうでしょう?
喪中はがきを受け取る側としては、故人と親交が全く無いなんてことも珍しくない。でも、遺影にその人となりを添えた喪中はがきにしたらどうだろう。
たとえば「お酒が大好きで、肝臓をこじらせて亡くなった」というような内容だとすれば、その喪中はがきの送り主と比較して「あーねー(アーナルホドねー、の意の群馬弁)」とか「意外だなあ」とか、何某かの感想を持つだろう。そして、そこに愛があるんじゃなかろうか。
こういうことは、アタマおかしいとか言われてる奴が一人で呟いてもダメだ。やはり、組合とか大手ブランド企業とか、あるいはメディアやマナークリエイターが動かなければ。そしてそれがさも正しいマナーでありすでに流行しているかのように報じ続けると、いつのまにかそれが世の中のメインストリームとなったりするわけだ。
そのためには、遺影撮影がカギとなるでしょう
ヒトによってはその予感すらなく逝くこともあれば、もうかなり諦めた状態になってしまうこともあるわけですが、どちらにしても「で、遺影撮影」という感じではなくなるのです。
以前の旧型社会では、コトあるごとに写真屋を呼びつけたり、あるいはスタジオに出向いたりして写真を撮ることがあったわけですが、現在では写真撮影はすっかり庶民のモノとなり、写真の地位は低下し、みんなで集まった写真もケータイで撮って使い棄てられてしまう世の中なのです。
この状況はよろしいとは言いがたい。
「遺影を撮りましょう」という言い方では、言う方も言われる方も、ビミョーな気分になるけれども、集まったら家族みんなで写真を撮る習慣を取り戻せたらいいですね。そうすれば、もし万一いざというときに、余計なことで慌てなくても済むのでは。
どうせ極端ついでに申しあげれば、喪中はがきに使う写真なんか、べつにケータイでも悪くはないわけで、自分が食べた餌の記録ばかり撮ってないで、たまには両親とか家族とかも撮っておけばいいのではないかと思います。楽しげにビール飲んでる写真ならば、見知らぬ誰かが喪中はがきを見ても「ああ、ビールが好きなヒトだったんだな」ってわかりやすい。畑をいじくってる写真ならば「畑に精を出してたんだな」って伝わるだろう。
それにしても「ご挨拶をご遠慮申し上げます」っていうニッポン語、おかしいよな。それについては→ 喪中はがきの謎をご覧ください。
こんなコトばかり言いふらして歩いてるので、両親としては「どんな喪中はがきを差し出されるか心配で、おちおち死ねない」とか思っているらしい。ごめんね、バカで。でも、結婚式より葬式の案内の方が増えてきたお年頃なので、気になるのです。喪中はがき。